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狂う
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空は青く高く、雲一つない。もう少し陽が高くなれば、じりじりとした熱気が肌を焼くだろうけれど、まだ朝のさわやかな空気は清涼な風となって心地良く吹きぬけていた。
暑さを嫌う三成は、この時分は朝早くから起き出す。涼しい内に政務の殆どを済ませる為だ。
この日も早々に仕事を済ませ、此処のところ城に詰め通しであったので、気分転換の意味も込め暑くならない内にふらりと城外へと散歩に出たのであった。
「あら、三成早いのね」
三成の主たる豊臣秀吉が妻ねねは、城から少し離れた神社の石段に腰を掛け、ぼんやりと空を眺めていた。少し前から彼には彼女の姿が見えていたが、声をかけるのをためらい、黙って前を通り過ぎようとしていた。
目の前を通り過ぎてもこちらに気付きそうに見えなかった彼女の声に、三成は気まずそうに少し高い位置に座り込む彼女を見上げる。
「どうしたの、びっくりした顔してる」
ねねはいつものようににっこりと笑う。その笑顔を彼は痛々しそうに見つめ返す事しか出来ない。彼女が朝も早くからそんなところでぼんやりしている理由の見当はついていたからだ。
――また、秀吉様の新しい女の件だ。
三成は主君の才覚をこの上も無く信頼していた。だが、こと女関係においては複雑な思いを抱いている。
今をときめく天下人が多数の側室を持つ事も、遊び女との浮名を流す事も、この時代であれば別段不実な事だとは思いはしない。だが、その正室たるねねが、その度に酷く辛そうにしているのを見るのは厭だった。
身分を考えれば、次から次へと女を変える秀吉より、その度に傷付くねねの方がおかしいのだとは理解していたとしても。
――あなたも、若い男でも咥え込んで、それなりに楽しんでしまえば良いのだ。
そう思いつつも、三成はそれを口にした事はないし、実のところ最近では、彼女の前では殆ど口を開いた事がなかった。
彼は、おのれの言葉が彼女を傷付けてしまう事を恐れていたのだ。不器用な彼はいつだって結論から先に口にしてしまう。
『秀吉様の事は諦めなさい』
或いは
『貴女も気を紛らわす為に男と遊んでは如何ですか』
それはねねの様な女性の心を引き裂くには充分な言葉だ。そんな言葉を口にしたくはないと思っていた。
傷心の彼女をそれ以上傷付けたくなかったのだ。のみならず、彼女が傷付かないように守ってやりたいとさえ思っていた。
何故なら彼にとって彼女は特別な存在だったからだ。
いつの頃からか三成の目には、彼女が母でも姉でも家族でもなく、たった一人の女としてしか、うつらなくなっていたせいだ。
「三成?」
「早く城に帰った方が良いですよ」
だからその時もつっけんどんにそれだけ言って、彼は彼女の前を通り過ぎる。必要以上の言葉を吐けば、自分がどんな失言をしてしまうかわかったものではない。胸の内の思いに気付いてしまってから、彼はそうしてねねの前から逃げる様に去っていた。彼女を傷付ける言葉を吐く前に、一刻でも早く…と、三成は思っていた。
足元に敷き詰められた砂利がざりっと音を立てる。彼女が鼻を啜る音が小さく聞えた気がしたが、すぐに自分の足が立てるざりざりという音にかき消されて聞えなくなった。
――俺は、馬鹿か。
ねねの前から逃げる度、彼はそうして自分を貶める。だが、それ以外に何が出来ると云うのだ。
『俺の女になりなさい』
一瞬、取って返して彼女にそう言っている自分の姿を脳裏に映し、三成は首を左右に振ってその絵を頭から払い落した。
――言ってどうなる。
どうにもならない。彼はそう思っている。自分では決して彼女に優しい言葉も心の安らぎも与えられない事を彼は知っている。彼女を手に入れたとして、醜い独占欲の虜となる自分の姿しか彼には見えない。だから少しでも自分を彼女から遠ざけようとしている。
――彼女が今より不幸になる姿だけは絶対に見たくない。
強く心に念じながら、彼は充分距離をとってからそっと後ろを振り返った。高くそそり立つ新緑の木々の隙間から、まだ石段に腰を掛けたままの彼女の姿が小さく見えた。
と、その傍らにふわりと黒い影が降り立った様に見えた。
彼の心臓がどきりと鳴る、
慌てて視線を正面に戻した。
何も考えない様にしようと思ったが、どきりどきりと鳴り続ける心の臓の音がやけにうるさく耳に響いて、その度に腹の底から何か厭なモノが湧いて出た。
――彼女が幸せならば、それで良いではないか。
自分に言い聞かす様にそう思ったが、同時に、
――他人に取られるくらいなら…
とも思った。
気付けば足元の砂利の音が、ざっざっと酷く大きな音に変わっている。彼は、自分が駆けて居るのだとその音で気付いた。
脳裏に彼女の白い体を抱き寄せる黒い影の絵が浮かんだ。それは次第に絡み合い、複雑に捩じれて行く。
三成は全力で走っていた。
四肢が悲鳴を上げるほどに、おのれの吐く息が荒く乱れるほどに――
突然、目の前が開けた。中天にかかろうかと云う陽の光が薄暗い林に慣れた目に痛い。右手を顔の前にかざし、光に慣れた目を足元に向けると白い砂が広がっていた。その先は、海だ。
「馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てる様に呟いて、背後の林を振り返る。一瞬はらわたがよじれる様な感覚があったが、当然ながらもうあの石段も彼女の姿も見えはしない。
三成は知っていた。あの黒い影が徳川の忍であること。ねねと彼が忍同士というだけの繋がりではないであろうこと。そして…
「だからどうだというのだっ」
湧き起こる胸の悪い思いを吐き捨てるように三成は言葉を発した。ぎゅっと鈍い音を立てたのは握りしめられた彼の手甲の音だ。目の前に舞いあがるのは彼が蹴り飛ばした白い砂の粒だ。
彼は酷く腹を立てていた。ねねの心を慰めるのが自分ではない事に、或いは、心から願う彼女の幸せを憎んでいる自分に、彼は酷く腹を立てていた。
「ままならん」
四肢の力をゆるりと抜いて、三成は海を眺めた。この広大な海がおのれのものとならないと同じに、彼女もまたおのれのものとはならないのだ。そう思えば、海さえ憎くなる。
ぼんやりと砂浜に立ちながら、ひとしきり海をにらんだ後、三成は笑っていた。
「馬鹿か、俺は」
明らかな自嘲の笑みを浮かべたまま、海から視線を反転させて林を見据えた三成の目は、しかし一片の笑みも孕まず、暗い憎しみの色を乗せたままだった。
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⇒end
いっそ憎んじゃえばいいと思う。
手に入らないなら壊してしまえ的な乱暴さがあると涎が出ます。