服部半蔵覚書
某月某日
久し振りにおのれの室で、眠る事が出来る。
ここのところ、もっぱら諜報の任で忙しく、城に泊まり詰めであったゆえ――。
昨夜はさすがに根を詰めすぎたか、不覚にも軽い目眩を感じ、情勢いまだ収まらぬと云え、ともかく収束の方向へ向かっているのは見えて来たので、主に願い出て、本日、一旦屋敷に帰り、身体を休める事とした。
家人も、久しく主の不在で消沈していた模様。
帰ると告げたれば、手を打つ喜びようで、主の世話をするのが勤めである家人にも、申し訳なき事をしたと思う。
夕餉は、おのれの好物ばかりを出され、ここのところまともに飯など食しておらなんだ故、逆に腹が驚いてはと思い、申し訳ないが半分ほど残させて貰った。
その事を詫びると、滅相もないと逆に平伏され、もし夜半に腹でも空いては――と、軽いものをいくらか置いて行ってくれた。
逆に手間をかけさせたか――と、思えば、なかなかに加減が難しい。
我が家の風呂も、快適。
女を用意いたしましょうかと聞かれ、確かにここのところ女人にも触れてはいなかったが、と、しばし考えるも、身体を休める為という名目で帰宅とあれば、今日のところは独り寝でよかろうと、断った。
髪を乾かしに参った下女と、少々戯れる。
夜半、独りで布団に入るも、やはり腹が減ってきて、家人の用意した小さめの握り飯をありがたく頂く。
当家の者は、気のつくものばかりで、助かる。
あまり屋敷で過ごせてやれぬのが、本当に申し訳ない。
腹がくちた途端に、先ほどの下女との戯れを思い出し、やはり女を呼んで貰うか――と、思うが、もはや下働きのものも床に入ろうかという刻限にて、こんな事でまた働かせるのも申し訳なし。
かといって、おのれで始末するのも気が滅入る。
なんとか自然に収まらぬものかと、ぼんやりしていたらば、ふわり、と、あの香りがした。
嗚呼、そういえば、このような夜には大概、あれが現れたなぁ、と思い出し、久方ぶりに会えるのであろうかと、少し、嬉しく思った。
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カタリ、半蔵は筆を置き、香りをたどって中庭に続く障子を見た。
間もなく、月明かりに照らされた障子の向こうに、小さな女の影がうつる。
「来たか、久方ぶりだ」
半蔵は、何時になく嬉しげに声をかけた。
と、何が面白いのか、障子の向こうで、くすくす、と忍び笑う声がして、つられたのか、半蔵もまた笑った。
「添い寝のお方はおられませんの」
からかうような声がする。
「貴様が来るかと思うて待っておった」
根も葉もない嘘だ。
「相変わらず、嘘が下手でやんすね」
笑う声はいつの間にか半蔵の背後で聞こえた。
「貴様にぞっこんで、他の女に目がいかぬのだ、女狐」
不思議なものだと、半蔵は思う。
あの頃は、この女に斯様な戯言を言うた事もなかったのに、今ではまるで、長年睦み合うた情人同志のように軽く言葉がこぼれるのは何故であろうか、と。
「またまたまた、嘘ばっかり」
ふわり、と背後から柔らかい体に背を抱かれて、半蔵は大きく息をついた。
常では味わえぬような、安堵、安らぎ、落ち着き、平かな想い――そういったモノが背を中心に溢れて来て、なんとも言えぬ気持ちになったのだ。
「少し、お疲れのようですね」
女はそう言っての耳を食む。
「うむ、情勢いまだ厳しいゆえ」
つまらぬ事を云うものだと自分で呆れつつも、まあ他に感想を持ち得ぬのだから仕方あるまいとため息をついた。
そこからは、言葉もなく、女はただやわやわと背に触れて、その安心感からか、いつの間にか、半蔵はとろりとした眠気に襲われる。
「女狐、共に休むぞ」
優しく声をかければ、可愛らしく頷く気配。布団に潜ればまた背をあたためてくれる。
しん、と静まった室の中、眠気に身を浸しながら、ぼそり、と
「早う、連れて行ってくれぬのか」
会う度に思う願いを口にすれば
「残念、まだ旦那にはやる事があるでしょう」
意地悪く、いつもと同じ返答。
嗚呼、あの頃はよかったなぁ――などと、柄にもなく、まだこの女が生者であった頃を思い返し、いつの間にか室に満ちる女の香りを胸一杯に吸い込んで、半蔵は、くるり、と後ろに振り返った。
途端、霞の如く女の姿は消え、しかし気配だけはまだ室にとどまり――
「にゃははは~まだまだ修行が足りぬな」
そんな笑い声が背後から響いた。
「まだか、」
苦笑を孕んだような、苦渋に満ちたような半蔵の声。
「まだ、だ」
相手の声音を真似ていても、かすかに憂いを含んだ空気。
「もうちょっと、がんばったら、ご褒美に私を抱かせてあげるから、ね、だ~んなぁ」
やはり、からかうようにそう言って、女の気配は、ふい、と消えた。
小さくため息をついて、寝返りを打つと、まだ文机の行灯を灯したままなのに気づき、半蔵はむっくりと起き上がり、再び筆をとった。
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あれが、来た。
また、姿も見せずに消え去った。
もはや、あの頃のように、影のままでは逝けぬおのれゆえ、まだあれは連れて行ってはくれぬのだろう。
それがありがたくもあり、また寂しくもあり、申し訳ないとも思える。
明日もまたお勤めであれば、早う寝ねば――。
今日も、何事もない平穏無事な一日であった。
明日もそうであればよいと、心から願う。